top of page

【イベントレビュー】
「世界だじゃれ音Line音楽祭 Day1」(令和2年10月31日)

image.png

2020年10月31日(土)に開催された「世界だじゃれ音Line音楽祭」。作曲家の野村誠がディレクターを務めるこのイベントは、元々は千住エリアを舞台にした1010(せんじゅう)人の演奏者によるコンサート 「千住だじゃれ音楽祭」の一環として企画された音楽祭「千住の1010人 from 2020年」が原型だ。 例によって新型コロナウイルスの感染拡大によってリアルの場に集まっての開催は困難になり 、「in 2020」から「from 2020」に方針を変え参加者がそれぞれの場所からオンラインで参加し演奏を楽しむスタイルで開催された。

コンセプトは、その名の通り「気軽にだじゃれを言い合い、そこから音楽を生み出す」というもの。言語や価値観の垣根を超えたユニークな発想の即興演奏ワークショップを世界各国で行ってきた野村らしい、肩肘を張らずに音を出すことのプリミティブな楽しさを体感させてくれる11 のワークショップ やパフォーマンスが用意された。それぞれが非常に実験的な内容で、それはまるで「Web会議サービス」という、突如として世界中でインフラ化したツールをなんとかして音楽的なコミュニケーションの場に引き込むための、この空間ではどんなセッションが「あり」なのかを探るための百人組手のような様相を呈していたようにも見えた。特に印象的だった2つのプログラムを振り返ってみたい。


▼上田假奈代の詩と『ほんまにブックビッグバンド』 
10分間強の演奏が終わり、野村の「なんか、すごかったね」という一言に、思わずうなずいた。

「ブックビッグバンド」の名の通り、自室にいる参加者たちは、詩人の上田假奈代が語る詩にあわせて、各々が本をめくったり叩いたりして音を鳴らしたり、適当に開いたページの一節を読み上げたりする。

image.png

正直なところ、果たしてそれだけの方法でセッションが成り立つのだろうかと訝しんだが、「ビッグバンド」という看板に偽りなしの壮大な合奏だった。

演奏は、上田の読み上げる詩が終わりに向かって一直線に進んでいくなかで、ほかの参加者たちがランダムに発した言葉が波のように被さったり引いたりをくりかえす。
 
長さの異なるいくつかの振り子を一斉に動かして横から覗いた時のように、リズムも語気も異なる言葉たちがわらわらと発せられているのに耳をすますと、混沌としていた言葉の海のなかふとした瞬間に言葉の連なりが現れる。
 
「青色申告は」「小匙三分の一の」「関係を構築する……」
 
フィールドレコーディングした音声をコラージュする手法は現代音楽からポップスにまで浸透しているが、これはそれをライブで行っている状態だ。脈略のない言葉の連なりが、不思議と胸を打つ。この妙な儚さは何だろう?

次第に誰がどの言葉を発しているのかが不明瞭になっていって、声が「ダマ」になって匿名的になる。そこに野村の弾くピアノの和音が美しく響きわたる(オンライン演奏を響きわたる、と表現するのは変だが、この時は本当にそう感じられた)。この「寄せ集めの言葉」の力の謎は一体何だろうか。入り乱れる言葉のなかで、自分がたまたま拾った言葉と言葉に、なにかを見出したような気がした時のあの神秘的な感触は一体何なのだったのだろう 。
 
言葉の合奏が引いていき、上田の朗読が浮上してくる。
 
「言葉が死んでいた。誰にもアリバイはなかった。いつでも言葉とは一緒だったのだ。言葉が死んでいた。誰が言葉を殺したか。私だ、と名乗る誰もいなかった。」 
 
オンラインツール上での楽器の合奏では、音のダイナミクスやアンビエンス、質感が失われることがネックだが、朗読の合奏はそうした環境もものともせず 、読み上げられる言葉の意味を超えて結晶を作った。
 
本は、活版印刷技術が登場して複製が可能になるまでは、内容を読み上げることが主な用途だったという。黙読は活版印刷によって個人が書籍を所有できるようになったあとに生まれた行為で、先立っていたのは朗読であるということは忘れられがちだ。言葉を声に出す、という行為そのものの神秘に向かい合った、不思議な時間だった。
 

▼麺族音楽学者アナン・ナルコンの『ヌードル・ノイズ・オーケストラ』  
 
タイと繋いで行われた『ヌードル・ノイズ・オーケストラ』は、「麺族音楽学者」という肩書きでクレジット(実際はタイのシラパコーン大学の音楽学部教授を務める民族音楽者)されているアナン・ナルコンがオーガナイズするプログラム。内容はその名の通り、アナンと参加者たちが開始時間の訪れとともに各自ヌードルを食べるというもの。麺をすする音を音楽として奏でてみよう、という試みだ。
 
13時を待って、参加者たちはそれぞれが用意したカップ麺や調理したうどんなどを食べ始める。
 
24人が一斉に麺をすする様子はなかなか壮観で、そして食欲をそそる。演奏者(ヌードルイーターと呼ばれていた)たちは、音楽的な音を出すことに工夫をこらすよりもとりあえずは普通に食べることに集中している。各々に戸惑いや迷いが無い分、手持ち無沙汰な空気が生まれることもなく、観る側としては微笑ましい。

image.png

この「麺を音を出してすする」ことに関しては、一時期「ヌードルハラスメント」などと騒がれたように、これ自体は日本など特定の国でのみ通用する文化のため、場合によっては自重しなくてはいけない行為だったりするのは周知の通りだ。
 
気になるのは、アナンの母国であるタイでは、多くの麺料理が食べられている一方で、人々は麺をすすって食べることは基本的にはしないという点。どういった経緯でアナンがこのテーマを設定したのかは知らされていないのだが、自らにとっては不作法でもしかすると不愉快ですらあるかもしれない日本固有の行為を持ってきたことに、このワークショップの真意があるように思える。
 
ヘッドホンに飛び込んでくるさまざまな「麺音」。一人一人異なる音の大小、すする時間の長短。聴き入っていると、段々とどの音が誰の音かの判別は難しくなり、食べるという行為と耳に飛び込んでくる音との因果関係が無くなっていく。
 
ヌードルハラスメントの論争はあらゆる立場の人々から意見が出され、これといったまとまった帰結は見なかったと記憶しているが、なかには日本人のなかにもこの行為自体を日本国内でも排するべきと訴える過激な人もいたという。そこにきて、このアナンのワークショップは「麺をすする音は粗雑で野蛮で不愉快」と思う人にとってはもしかするとセラピーとして作用しそうな体験だ。食べるという本来の目的を演奏行為としてすり替え、目的と行為を切り離すことで、人がある音に抱いている意味、場合によっては偏見にも繋がるイメージをリセットさせる。もしそうした意図があったとすれば、痛快なパフォーマンスだったと思う。

この「世界だじゃれ音Line音楽祭」は、記録映像に加えて当初は演奏者たちが集うはずだった電車、船、公園、まちの風景を組み合わせて作曲、編集した映像音楽作品「千住の1010人 from 2020年『2020年を作曲する 世界だじゃれ音Line音楽祭』」が2021年3月に公開されたのでぜひ見てみてほしい。



執筆:三木邦洋(みき・くにひろ)
ライター。1987年生まれ。Timeout Tokyo、Forbes Japanなどの媒体に寄稿。

 

bottom of page